受験数学において、数学と暗記の関係が議論になるときがある。かつては、それを表題にした本が話題にもなった。
パターンを暗記すればおよそほとんどの問題は解けるとか、暗記をしても応用問題に太刀打ちできないとか色んな意見がある。
ここでは、趣味として数学を楽しんでいる立場から見解を述べたい。
受験問題は、実際にその多くがパターン化している。いくつか理由があって、問題作成者が数学一般における有名事実を題材・背景にしたり、解答者が一定割合で正答を得られるようにレベルを意識したりする為だ。
中には、ある種先人の知恵的な解法があったりして、凡人の思い付くところでないようなものもある。知らずして、解法を自ずから発案することは不可能と言わずとも相当に難しかったりする。
こんなことをいうと、あたかも数学は暗記であると標榜してるように読めてしまうが、僕の真意はここからだ。
受験数学において、公式やパターン、先人の知恵は武器だ。手段であって目的ではない。
重要なのは眼前の問題に対し、どの武器を使うのかという点だ。たくさん知っていても適切に判断ができなければ、持ち腐れとなるし、逆に、問題を解ける武器をちゃんと使えるのであれば、体得の仕方はどうであってもいい。
もちろん持っている武器について、深い造詣があることはその活用に幅を広げるし、定着にも繋がる。
だが、どんなに知識が豊富でも、どんなにパターンを覚えていても、今考えている問題に対し、どの知識が使えるのか、どのパターンに当てはまっているのかを判断できなければ意味がない。
そして、その適切な武器の選択による解法の構築こそが数学の醍醐味だと思っている。この選択については暗記というわけないはいかないだろうし、適切な選択ができることを人によっては数学センスと呼んでいるのだと思う。
ボクの見解においてこの数学センスは、問題に対する観察力と論理によって構成されるものと考えている。
もっと一般に、自分がその時点でもっている知識を武器として、眼前の問に立ち向かうという態度は数学に限った話ではないはずだ。多くの領域で、知識は持っているだけで効力を発揮する何かの通行手形ではなく、活用を持って役割を担う。
数学が暗記とかどうとかの話は、この観点からは少し寂しい気がしている。