最近旧友から、大学受験生の子供が数学で解けない問題があって悩んでいるから教えてやってくれないかという相談を受けた。
もちろん快諾して、その解けないという問題をみせてもらったのだが、それは塾のオリジナル問題で絶対値を含む関数が囲む図形に関する問題だった。
そこそこに計算量が多い問題で、難しいというよりも面倒くさい問題といった印象だったけど、高校生だとそこの違いもあやふやにざっくり難しいと判定してしまうのだろう。
ここにその問題を掲載できないのが悩ましいところだけど(式を忘れてしまった)、出てきた関数のうちひとつは
$$y=|ax+b|+|cx-d|$$
といった形をしていて、絶対値の中の場合分けを考えると、面倒くさくてたまらない。
こんなときまず思うのは、何とか楽できないかなということ。数学の問題に限ったことじゃないけど、難しい問題や複雑な問題にでくわしたときに、つい頭の中で難しいとか面倒だとかいう感想を延々とループさせて、実際にちゃんと解決手段を考えていないということはありがちな話だ。
楽をするということはどういうことだろうか。
計算を簡単にする方法を考えてみる、というのがすぐに思いつくことかもしれないが、それが実ることはそんなに多いことじゃない。
楽をする手段としては、問題が解けるシナリオを整理する、ということもある。計算が面倒な問題は、当たり前の話だけど、計算をしなければ、或いは代わりに誰かが計算をしてくれれば面倒ではなくなるはずだ。つまり、面倒な計算を省略して外観をみたときに、全体としてどんな場合分けが発生して、どんな流れで答えが求まるのだろうか、途中どういう状況になるだろうかということを考えてみる。
問題を少しだけ俯瞰的に見てみると、同じような計算をするところや、計算をしなくてもいいところ、マーク式の問題ならばそもそも考えなくても済むところなどが見えてくることがある。
場当たり的に立ち向かっていって、目の前に出てくる数字をひたすら計算してやっつけて解答を得るなんて態度は、計算力はつくかもしれないが、無駄が多くて、その分答えにたどり着くまでの道のりが長く辛く思えて、結局投げ出してしまうなんてことになりかねない。
これって実生活におけるいろんな問題にもあてはまる。面倒な問題、難しい問題にでくわしたときに、まず難しいのか面倒なのかどっちなんだろうと考えてみる。面倒な問題ならば、頑張れば解決できるはずだ。
面倒と難しいを区別する。
難しいものを放棄せよということでは決してないけど、面倒なものとカテゴライズされたものからは逃げないようにしたいものだ。