いま巷では選択的夫婦別姓が話題だ。
賛成か反対で色々議論はあるみたいだ。よくみる賛否意見数のグラフでは6:4くらいで拮抗している感じのものをみるけど、テレビコメンテーターは賛成派が多いんじゃないか(感覚だけど)。
街頭インタビューでも賛成派のコメントが多くて、よくある意見が
別姓で助かる人がいる一方で「選択的」なんだから嫌な人は同性にすればいいし、そういう意味では誰にも害がない
というものだ。
今回はどっちであるべきかなんて議論はさておき、物事を考えるとき(数学の解答につまってしまったときとか)の一助としてアプローチしてみたい。
上記に挙げたような「選択的」なんだから賛成でしょみたいな意見は、わかりやすいし背景知識を知らなければ知らないほど誰でも思い浮かぶ回答だ。
ここでは、そこをあえてあまのじゃくに攻めてみたい。選択的夫婦別姓に反対してる人なんて古い価値観の人だとか、意味が分からないとかで思考放棄せずに、そのポジションの意味を考えてみる。
背理法的なスタンスだけれども、少し異なる。ポイントは相対的議論であってどちらかが正解ではない、ということ。一方の論理が最後まで通貫出来れば採択すべき答えが得られるとは限らないということだ。問題解決のための手段の比較であって、最短経路を求めるための一般化のすべを知らないわけだから、想定しうる選択肢の吟味をせざる得ない。
選択的夫婦別姓に反対とは、夫婦は同姓であるべきということだ。この意見を主張するためには、
「別姓を選択できること」にデメリットがあって、それが「同姓でなければならないこと」のデメリットに勝るか、劣っていても「同姓でなければならないこと」のメリットがデメリットの差を看過できる程度に大きい必要がある。
ここで注意したいことは、これはメリットやデメリットが測定可能であることを前提としていることだ。そもそも現制度を辞めたときにどういったことが起こるか想定することがいかなるシミュレーションを行っても不可能である、なんてときには慎重論というか、選択的夫婦別姓のメリットを個別導入を模索するのが安全だ。
では、それぞれのメリットとデメリットは何かを考えてみる。ぼくらは何と何を天秤にかけているのだろうか。
天秤の一方にしかモノを載せていないのに重さの判定をすることは、当然だけどそもそも比較をしていないことと同じだ。しかし、物事を二項対立の中で考えるとき、一方の論理が単純で受け入れやすいものであれば、ぼくらはついそちら側を推してしまう。
結婚で苗字を変えたくない人は変えなくてよいこと
と
結婚したら苗字を統一すること
の対立軸を考えるときに、「結婚で苗字を変えたくない人は変えなくてよいこと」のメリットが簡単に思いつくぼくらは「結婚したら苗字を統一すること」のメリットやデメリットをちゃんと理解できているのだろうか。
戸籍制度とは何か。
家制度とは何だったのか。今、文化として何が根付いていて、何を守るべきだろうか。
ワイドショーやネットニュースで選択的夫婦別姓が話題に上がると否定派の意見として紹介されるけど、この辺に明るい人や調べてみようと思った人はどれだけいるのだろう。
一見わかりやすいものの中に罠がある。複雑さの中にはまやかしや綻びが混じる。
単純なことは複雑に、複雑なことは単純に考える的なことが、野村克也さんやユニ・チャームの創業者をはじめ、著名人の言葉にでてくるけど、まさにこれだ。
「考える」ことを考える。選択的夫婦別姓自体の是非とは別に、いい題材だなと思った今日この頃。