今回は少し社会派なことをテーマに。
「表現の不自由展」の再開がニュースに流れ始めて、2ヶ月前がそうだったように「表現の自由とは何か」という議論がまたあちらこちらで聴こえ始めた。
展示されているものはプロパガンダか、芸術なのか。表現の自由の線引きはどこにあるのか。
ここで少し離れて、数学の論理的なところから眺めてみる。表現の自由の歴史的経緯やあるべき態度といったようなことには無学なので、そういった観点から誤りがあることはご容赦いただきたい。
一般にある命題に焦点が当たるとき、それが
全称命題なのか
存在命題なのか
という観点での整理がある。対象としているものについて、例外なく全て成り立つのか、成り立つものが存在していればいいのかということだ。
恒等式と方程式
AnyとSome
など色んなところで出てくる。
ある人が
「ボク、なんでも食べれるよ!」(全称)
といったとき、
「じゃあ、このゴミを食べてごらん」
ということを拒否できないが
「ボクには食べれるものがある」(存在)
といえば、ゴミを食べることを強要されることはない。
全称と存在は否定の関係で、
「ボク、なんでも食べれるよ!」(全称)
という発言が嘘であることを言うためには、ありとあらゆるものを食べさせる必要はない。
食べられないものひとつを提示して、
「キミには食べられる多くの種類のものがあるってことだよね」(存在)
と教えてあげればいい(性格は悪いけど)。一つでも例外が見つかれば、全称命題は否定される。
では、「表現の自由」の話に戻って、この
「表現の自由が守られている」
というのは、その場所について全称だろうか存在だろうか。
つまり
ありとあらゆるところで、表現の自由が守られている(全称)
のか
表現の自由が守られているところが存在する(存在)
ということなのか。
結論をいえば、これは存在だ。
ボクの家で誰かがボクの趣味ではない芸術の展示を行おうとしたときには、拒否することができるわけで、
「あなたが否定しても、私にはあなたの家でこの芸術を展示する権利がある」
なんてことにはならない。
「表現の自由」というのは、その表現の「存在」が守られていると解釈できて、(存在の多寡の議論はあっても)日本中のどこでも表現ができるということではない。
換言すると、
「日本のどこであってもそのことを表現してはいけません」
となると存在が否定されることになる。
そして、そういう状況ではないということが「表現の自由がある」ということだ。
たとえば、法律・条例を設けたり、美術展の開催の度に検閲をして一定基準のものを排してたりすると、「日本のどこであってもそのことを表現してはいけません」と言っているようなもので「表現の自由」が損なわれているということになる。また、曖昧な表現にはなるけど、それに準ずるような十分多くの場所で制限をしているときには、そう言えるのだろう。
ゆえに、ある特定の場所での表現の可否については、その特定の場所の意思決定者次第ということにしても、「表現の自由の存在」を否定することにはならない(可否の理由や存在の場所の議論はあってもいいけど)。
だから「表現の自由を奪うのか!」とかの批判は的外れで、「公金で政府見解と異なるメッセージをサポートする意味=皆のお金だからあらゆる表現を分け隔てなく展示すべき、或いは政府見解を公の意向としてそのお金の使途と一致させるべき」とかの議論をみたい今日この頃。
ちなみに、政府見解を公の意向としてそのお金の使途と一致させるべきが表現の自由を奪うことにはなる的な話も聞くけど、
ヴォルテールをなぞると
「私はあなたの意見には反対だ(だからお金はださない)、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る(規制はしない)」
だからそんなこともない。
でも、開催させてくれるところがないという、実質民間での規制があるものに対して権利を守る(お金を出す=機会を与える)という考え方もあるから、難しいね。