猿に無限にタイプさせれば、出力された文字列がシェイクスピアの作品と一致する確率は1となる。
これは、無限と確率の関係のいい例として無限の猿定理とよばれていて、可能性あるものは無限に繰り返すと必ず起きることを意味している。
実際にはキーボートのキーの数だけ選択肢があって、そこから正しいキーを連続して選択できれば達成できるわけで、実際にやってみることは不可能でも、思考実験で僕らは容易く理解できるはずだ。一兆回とか百兆回みたいな有限回だと難しくても、無限回なら期待した文字列が出現するまで止めないわけだから確率は1なのは自明だ。
そもそもこれって定理っていうんだっけ?という素朴なツッコミはおいといて、理解できる壮大な無限のイメージの例だけど、この無限というものが我々の感覚を飛び越えたものを見せることもしばしばあって、それが悩ましいし、楽しい事象につながる。
$$\lim_{x \rightarrow \infty} \dfrac{1}{x}=0 $$
が、辿り着かないけど目指している値、届かぬ一歩先をイコールで結ぶから、
$$ 0.3333333 \cdots \times 3=0.99999 \cdots=1$$
なんてあの頃の少年が疑問を持つような関係を作り出すわけだ。
この
目指している
ということが肝要で、一時期話題になった
半径1中心角が直角の扇形の円周を、階段状の直線の極限と見なせば
π=2
が示せてしまう(もちろん誤り)
というのも、
階段状の直線が円周を目指していない
というところで一般感覚を鈍らせている。
次の無限ホテルの話も有名だ。
あるホテルには無限の部屋があるが、いますべて満室だ。そこに一人新しい客がやってきた。この客を泊めるにはどうすればいいだろうか。
答え
すべての宿泊客に隣室に移動してもらう。そうするとはじまりの部屋は空室になるから、そこに泊まることができる。なんとなくずるい気がするが、これも無限のなせる業だ。
こんなだらだらと何が言いたいかっていうと、無限というか極限あたりって苦手意識持っている人多いと思うけど、その苦手意識の原因は
一般感覚とのずれとか扱いにくさ
にあって、それって見方を変えれば無限のおもしろさにつながってるんじゃないかと。
もっと一般的に言えば、難しいことって、その難しさ自体が魅力の構成要素の根幹なんてこと、あるんじゃないかと思った次第だ。以上。