今更ながら、映画「鑑定士と顔のない依頼人」をみた。
「ニュー・シネマ・パラダイス」「海の上のピアニスト」の名匠ジュゼッペ・トルナトーレ監督の作品で、ずっと見たいと思っていて漸く見れた。
壮年の一流鑑定師が主人公。本物と贋作を見分ける確かな目の持ち主で、曰く
“There is always something authentic concealed in every forgery.“
いかなる贋作の中にも必ず本物が潜む
らしい。贋作を作る中で、意識的にも無意識的にも自分らしさを含めてしまう。
この言葉がこの映画全体で示されていた。愛が芸術ならば、本物と贋作が存在し、その贋作に本物が潜む、と。
あらすじは別サイトを参照してもらいたいが、あまりにいい映画でみんなどんな感想を持っているだろうと調べたら、たくさんの人が誤解?しているように思えた。この映画をバッドエンディングだと捉えている。
オチをいうとネタバレで申し訳ないが、これは主人公の単なる失恋、だまされた恋の話ではないはずだ。それだと、愛という芸術の中に、贋作が存在する、というところまでだ。彼のメッセージは、その贋作の中にも本物が潜む、ということだ。つまり、そんな恋であっても、その中に本物の部分はあって、そこに浸る最後が描かれている
(と解釈した)。
そんな最高な映画をみて、ふと思ったことがある。
数学もよく芸術と例えられる。そうすると、数学にも本物と贋作があるということか。そしてその中に本物が潜んでいる。
数学における贋作とはなんだろう。それは自らの手による発見的証明ではなく、すべて誰かの模倣で書き連ねた証明のこと?すると、本物とは?芸術における本物がオリジナリティを意味するならば、数学におけるそれはなんだろう。んー。
映画で心打たれた表現なだけに、そして、映画いうように愛が美術ならば当てはまるものならば、数学とて、と思っただけに解釈が難しい。。