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年末の挨拶と煩悩と

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今年最後の更新。

問題解説を週イチでと先週話したばかりなのにまだできていないけど、それは新年1つ目のネタにさせてほしい。

 

晦日には毎年恒例で除夜の鐘を聞く。ご存知のように煩悩の数である108回その鐘は鳴らされる。なぜ108回なのだろうか。

 

ネットで調べると諸説あるようだが、108回というのはどうやら通俗的で、宗派等によって回数はまちまちらしい。とりあえずWikipediaにあるところを参照してみると、

 

説一切有部では、『倶舎論』「随眠品」などにも見られるように、伝統的に煩悩(随眠)を「九十八随眠」として表現することもある。


これは、「貪・瞋・痴・慢・疑・見」の「六随眠」を起点とし、三界の内の「欲界」に32、「色界」「無色界」にそれぞれ28、計88の「見惑」(見道所断によって断たれる煩悩)を配置し、更に10の「修惑」(修道所断によって断たれる煩悩)を加えて、九十八随眠としたものである。
これに「十纏」とよばれる10の煩悩を付け加えたものが、俗に108つの煩悩と呼ばれているものである。

 

とある。ほかのサイトもいくつか覗いてみたが、平べったく言えば分類は様々だがそれだけ(108種)種類があるようだ。

 

ここで、それら108種類の煩悩からなる集合Bを考えてみよう。

 

B={煩悩1,煩悩2, ..., 煩悩108 }
と書ける。

 

その世界に詳しくはないが、これらの煩悩で世の中の煩悩をすべて表せるというのだから、どう演算を定義するか悩ましいが、これら108つの要素は、煩悩の組み合わせが煩悩であり続ける限り体となる。つまり、煩悩集合は煩悩体(有限体)となる。

 

そこで、世の中の悩みは煩悩を解として表現できないだろうか。つまり、一般的悩みは任意の煩悩の写像により構成され、それと一定の事実が紐付けられるような煩悩が存在するとき、そこに方程式を見いだせるだろうか。

 

私はこの考察の素晴らしい結論を思いついたが、それを書くにはこの余白は狭すぎる。。。とフェルマーのようにいいたいところだが、煩悩を扱う宗教学に長けているわけでも、これ以上こじつけを考える余裕があるわけでもないので、提起したままで年末の挨拶とさせていただきたい。いつかこの後続の見解を述べてみたい。

 

 

今年もこんなブログをあなたの貴重な時間を割いてまで読んでいただき、大変ありがとうございました。

 

2019年もボクなりに、なにか新しい試みを考えながら、淡々と更新していくつもりなのでよろしくお願いします。