ボクは日本生まれ日本育ちの生粋の日本人だが、大学院を卒業して就職した会社は外資系の金融機関だった。
学生時代、けして英語が得意だったわけではないし、院生時代も必要な最低限の英語だけを学んで論文を書いていたから、入社して以来随分と苦労した。
性格柄、沢山英会話を聞いて慣れるなんてことには抵抗があって、仕事で使うならば徹底的に学習しようと英文法の習得に随分と時間を費やした。もちろん、それがもっとも効率的な手段ということではないだろうし、それで話せるようになる保証もないのだが、定義から定理や公式を導く習慣になれていたことから、似た手法が自分にあっていると感じたためだ。
結果としては、今では仕事をする上ではそんなに問題ないレベルには使えていると感じている(注:勉強の出発がそこなだけで、他を一切やっていないわけではない)。
勉強している中で、英語と数学の共通点に一人ニヤニヤしていることが多々あった。その多くが論理に関するところだった(と記憶している)。
英語は日本語に比べてロジカルな言語であると言われている。それは英文法を学習している中で、経験的にも感じたところだ。どんなところでそれを感じたかを網羅的にここで列挙していくのは難しいが(ニヤニヤしていた内容をグループ化した回数にほぼ等しい)、記憶に残っているところで一つ紹介したい。
数学では、命題を扱うとき、全称と存在を考えることがある。
平たくいうと、全称とは『全て』、存在とは『在る』ということである。これは互いに否定の関係にあって、全称を否定すれば存在だし、存在を否定すれば全称となる。
例えば、
A「すべての国民が自民党に賛成である」
ということの否定は
¬A「自民党に反対する国民が存在する」
といった具合だ。誤解しやすいが、
B「すべての国民が自民党に賛成していない」
ではない。一人でも自民党に反対する反対論者を連れてくれば、Aは成立しない。するといわゆる排中律から、この状況は¬Aに属する。ここで排中律とは、
を参照してもらうと早いが、要はある命題に対して、その否定命題との論理和は恒真命題(常に正しい命題)となるということだ。
Bは一人だけ反対論者が存在する場合を含まないから、¬Aにふさわしくないということがわかる。
さて、英語の話に移ろう。
英語にはこの全称と存在の考え方がSomeとAnyの間にそのまま採用されている。
SomeとAnyは
学校英文法では、肯定文ではSome、否定・疑問文ではAnyと習ったり、
英会話学校では、逆になるケースもあるよ
と習ったりする。
このことは、Someが存在で、Anyが全称と考えればうまくいく。
例えば、以下のような文において表現の違いが理解できる。
Do you have some pens?
は存在を聞いているので、素直に「ペン持ってる?」となる。学校で習ったルールでは違和感あるけど、会話ではよく使う表現だ。
Do you have any pens?
は全称で聞いている。ペンという総体をイメージしながら「(なんでもいいんだけど)ペン持ってる?」と聞いているわけで、ペンを持ってなさそうなやつに聞くには使えるかも知れない。
他にも下記の文は顕著だ。
I don't like some of your friends. (お前の友達の中に好きじゃないやつがいるよ[存在])
I don't like any of your friends. (お前の友達全員好きじゃないよ[全称])
また、AllにNotがつくと部分否定というのも同じ話だ。全称を否定しているのだから、存在の表現である部分否定になるのは至って当然なわけだ。
英語を学習する中で、こういった数学的(論理学的)なことが随所に登場する。こういったことを見つけるたび、モチベーションが上がるのはボクだけだろうか。