運命の人とは誰だろうか。
生涯をともにする人だろうか。気が置けない友人だろうか。
そもそも運命の人は1人なのか、同時期に複数名が存在するのだろうか。
昔、ヘンゾ・グレイシーという格闘家が雑誌のインタビューでこんな感じのことを答えていた。
「どんなやつとでも上手くやっていける。大切なのは距離感なんだ。」
学生時分だったボクには深く突き刺さる言葉だった。
それまでの僕は、まずカテゴリを事前に考え、そこに人物を当てはめていた。恋人。親友。その他。
しかし、ヘンゾがボクに気付かせてくれたことは全く逆で、ボクの周りの人たちに対し、それぞれ適切な距離感を見定めることで、恋人の距離感にいる人が恋人であり、親友の距離感にいる人が親友であるということだった。もしかしたら、ある人との距離については世の中がカテゴリ名をつけていないなんてこともあるだろうし、それぞれのカテゴリの境界が曖昧なこともあるはずだ。そういう意味ではそれぞれの人との距離感が全てで、カテゴリは意味をなさないのかもしれない。
人間関係を測るこの距離感。ぼんやりとした表現だけれども、確かに概念としては存在している。
ここで少し数学的にみてみたい。
数学において距離空間は公理的に定義される。
すなわち、任意の変数において
1.$d(x, y)\geqq 0$
2.$d(x, y)=0 \Leftrightarrow x=y$
3.$d(x, y)=d(y, x)$
4.$d(x, z)\geqq d(x, y)+d(y, z)$
が成立するときに、この変数が存在する集合とこの関数の対を距離空間と呼ぶ。
人間界という集合において、任意の人物の距離を数学的に測るときにはこれらを満たしている必要があるわけだ。
そこで定性的だけど、置き換えて考えてみる。
1 二人の距離は0以上である
2 二人の間の距離が0ならば、二人は同一人物である
3 ある二人の距離において、こちらから向こうまでを測っても、向こうからこちらまでを測っても同じである
4 二人の距離を測るとき、仲介人を間に立てると、二人だけの距離に比べ同じか、遠くなる
こうしてみると、ぼんやりと存在している距離感は公理を満たしているように思えてくる。
今のところボクには感覚でしか捉えられないが、この関数 $d$ の具体的な立式ができれば、運命の人を定量化できるかもしれないし、人間関係が予知できて、出会い系サイトを作って一儲けできるかもしれないのに悲しいかなまるでわからない。
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