先週末、夜なんとなくテレビをつけたら、「先に生きただけの僕」というドラマがやっていて数学というワードがでてきたから読みかけの本をおいて、腰据えて観てみた。興味深いテーマで面白かった。
前回を見ていないのだが、今回は校長が数学の先生をクビ切ったかわりに(たまたま数学の免許を持っていたこともあり)数学の授業を責任取って行うというもの。そこで「数学を勉強する意味」を生徒に問われて説明していた。
端的に言えば、物事を筋道探して考えるのが数学で、それが役に立つ、とそういう内容だった。
僕も数学が好きなサラリーマンを名乗っているくらいだからサラリーマンなわけで、同じ立場だったらということで意見してみたい。対照的に高校生はほとんど見てくれてないとは思うけど。
僕の考えでは、数学を学ぶ「意味」が「必要性」ということで言えば、そんなものはない、である。
数学を学ぶだけで、内部でふつふつと何かが形成され、何かのときにそれが自動的に作用し、何らかの状況を打開できる、なんてことはまずない。
そういう受け身的な観点で言えば、ドラマ冒頭で失敗したと嘆いていた、数学を勉強していい成績をおさめて、いい大学に行けば、いい会社に入れて、幸せな人生を送れる確率が上がるという説明のほうが的をいている。
例えば、自分が死ぬまでの運命を明確に出来ているのであれば、そしてそこに数学が関与しないのであれば、数学の勉強をする意味はない。でも自分の高校時代も含めて、高校生は自分の将来の夢を明確にすることすら出来ていない人が大半なはずだ。であれば、ご飯を将来食べていく手段として、すでにひかれているレールを走ることには一定の意味がある。将来の職業選択の幅を狭めないための策だ。
一方で、学校において、生活しているだけで幸せな人生を過ごせる大人になるためのお膳立てが教育という名でされるようなことはない。これはけして今の学校教育の批判ではない。一人の学生をレールにのせて無事社会に送り出せれば学校の役割は満たせているはずで、しっかりとしたレールにのせることに注力したとしても、幸福度なんてものまであてにするのは期待するほうが間違っている。
我々が得た知識と言うのは、武器である。これは僕が数学の問題を説明するときにも頻繁にいうことだが、一般的にも当てはまると考えている。社会の仕組みとして、多くの人たちが自分の力でご飯を食べていけるように作られているシステムの中で得られた知識であっても例外ではない。
八百屋で働くおじさんが「因数分解なんて働き始めてからこの方知らなくても困ったことないね」という。因数分解が必要な(実際は因数分解を知っていること前提に他の数学の分野を学び、その流れ上にある数学の知識が必要な)職業は、意識している・していない問わず選択しなかったのだから、今の仕事の前提になっていなくて、自分から使おうという思いもないのだから、困らない。 でも逆に因数分解で諦めず、その後も数学を学び続けて統計学をかなり習得していたとする(因数分解を理解できない人が統計学を習得することは難しいはずだ)。すると八百屋で扱う商品と顧客の動向を自分で分析することができる。これで自分の商売を最適化できるかもしれない。
これは数学に限らず、何に使うかは自分で考えることだ。歴史や科学など他の科目も同じで、学んだこと自体に対した意味はない。日本人だから日本の歴史くらい知っておけとかいう話はあるが、知らなくても困らない人生はある。でも知っていれば、利用できる局面を自分で考えられるということが肝なのである。ちなみに歴史というか、哲学と言うか、現代文というか、先人の知恵と呼べるような物事の考えかたは僕の中で数学の問題を解くことに多分に役に立てているし、その数学は金融業務の中で実際に直接役に立っている。
どう役に立つのか人に聞くのもいいけれど、まずは武器にして使うんだという能動的な態度が必要であることを知ってほしい。
でも実際、突然明日から教育現場になんて言われたら、ドラマの校長以上に大変なんだろうな。。自分の仕事とは直接関係ないけど、特に数学教育の現場って少し気になる。そして、実際に働く教育現場の人、違う畑からやんやとゴメンナサイ。